全員に答える機会を
私は哲学カフェのイントロで反論禁止とは言いません。むしろ、それまでの流れと違う意見はカフェを面白くさせることが多いとおもいます。
とはいえ、異なる見解を言うために必ずしも論争的になる必要はないので、進行にあたって哲学カフェの「カフェ」的リラックス感を前面に出そうとしているところはあるかも。積極的に「おしゃべり」という言葉を使うのも、闘争的なメタファーで解釈されがちな「議論」のイメージを遠ざけるため、「何かを決める場ではありません」と言うようにしているのも、「論争」し「決着をつけたい」という欲望に備えてかもしれません。
逆に、異なる意見を出しやすくするために大事にしているのは、全員に問いに答える機会を確保することです。誰もが同じようなことを言っていても単純に退屈してくるので、異なる見かたを探したくなります。異論を提出して、それを並べてみることは、闘争的にではなく、楽しみとして行うことができるとおもいます。
鈴木径一郎(正会員/大阪大学社会技術共創研究センター)
恐れず場を揺さぶる
哲学カフェでは「反論禁止」とされることがありますが、私はむしろ反論を歓迎しています。 意見が一方に偏っているときには、進行役としてあえて反論を問いの形にして投げかけ、場を揺さぶることもあります。
ただし、ディベート的に「論理の穴を突く」ことだけに熱中すると、反論の為の問いかけは尋問となり、他の参加者にも言葉を失わせ、「公開処刑場」のように感じられてしまうことがあります。 「反論」は相手を追い詰めるためではなく、「あなたの声を受けとめて一緒に考えたい」という気持ちで差し出されるとき、恐怖のない探究のきっかけになるのではないでしょうか。
場を壊すことを恐れるのではなく、むしろ揺さぶることでこそ哲学は生き生きと動き出しますから、「反論」のお作法を場の始めに共有するのも良いかもしれません。
安本志帆(正会員)
誹謗中傷や非難とはちがう
私は、いち参加者としても、わずかな進行役経験の中でも、反論があるほうが対話に深みが出る気がします。私が参加し、時に進行役もしている神戸哲学カフェでは、言われてみれば、反論がないほうが珍しいかもしれません。一つの意見がでれば、みんな自然にその意見について真剣に考え、それぞれ違う立場から話す。これを「反論」と呼ぶかどうかは、人によって異なるかもしれませんが、少なくとも「反論は禁止です!」とはっきり言われてしまうと、こうした考えの広がりも失われてしまう気がします。
しかしもちろん、「反論」といっても、人の心を傷つける誹謗中傷や非難は禁止すべきでしょう。それが一度許されると、今度は萎縮して発言が難しくなる。だから、そのための安全弁がきっと必要なのでしょう。そこに線引きがあるから、私も参加者としても語りやすい気がします。
そうした誹謗中傷や非難には、まだ私は出会ったことはありません。そうしたものは、神戸哲学カフェをされている藤本啓子さんに倣って、最初にルール説明の中で、「誹謗中傷や非難はお控えください」と注意喚起しています。
とはいえ、何が誹謗中傷や非難であるのか判断が難しいところではありますが、あからさまにその人の性格や人間性を否定する発言であったり、この考えは「間違っている」とか、あなたのやったことは「そうすべきではなかった」などのような「言い方」には要注意でしょう。とどのつまり、それらは「反論」ではなくて、その人自身の至らなさを非難するものだからだと思います。
こうした発言や「言い方」が出ないよう、最初のルール説明の段階で、そうした発言や「言い方」に対する注意喚起をしておく。そうすることによって、実際にそのようなものが対話の中で出たときも、落ち着いてルールに従って注意する、というスタンスをとることができるのではないか、と考えています。
多鹿雅人(正会員)