目的を確認&リマインド
まずは目的違いができるだけ無いよう、イントロで場の目的を確認しています。「問いやテーマについて、対話を通じて考える場です」と言ってみるくらいですが。加えて、「何かを決める場ではありません」というのは必ず言います。決定とか合意形成とかではなく、探究自体が目的。そして、「では、どうしたら終わるかというと、時間が来たら終わります」と補足します。ここまでは、最後まで覚えていられることが多い。
しかし、悩ましいのはここからで……「誰かが何かを教える場ではなく、自分で考える場です」というようなことも確認するのですが、これは忘れられやすい。わたしは、イントロはできるだけ短くしたいほうなのですが、嫌な予感がしたときには、「アドバイスをする場ではありません」と重ねることもあります。
すでに考えたことを披露することを目的に参加する、ということが比較的起こりにくいということもあり、わたしは当日に問いを決める哲学対話を好んでしています。しかし、そういう場でも、その日の問いに関連しながらいくらか自己開示的な、実際の悩みや困難と接続して考えるような発言があったりすると、探求という目的を離れて、その人に「教えたくなる」、アドバイスをしたくなる、ということはしばしばあるものです。
10年以上前の話ですが、哲学対話に懐疑的だった人がそれでも参加し、次第に探究の流れに馴染み、テーマに関連して、終盤にはいくらか自身の気にしている問題も絡めながら考えていたときに、専門知をもったひとが、親切心からでしょうが、アドバイス的な発言をして、「しまった!」とおもったことがあります。アドバイスをされた人は、熱心になっていたのが、急に静かになりました。もう、次は哲学対話の会に参加しようとは思わないのではないかな(フォローのしかたもあったのでしょうが)。目的は教えることではない、ということはイントロだけでなく、進行の間にもリマインドしておいていいことかもしれません。
鈴木径一郎(正会員/大阪大学社会技術共創研究センター)
本当に目的の違い?
哲学カフェには、ときどき「目的違い」に見える方が参加されます。アドバイスを始めてしまう方、正解を求めて答えを急ぐ方、自分の物語を語り続ける方、議論で勝とうとする方。哲学用語を披露したくなる方や、雑談をしに来たように見える方もいます。場がざわつき、「この人は違うのでは」とつい思ってしまう瞬間があります。
けれど、その「違い」は本当に「目的の違い」なのだろうか、と最近考えるようになりました。アドバイスのように聞こえる言葉は、本人が不安を埋めようとする誤作動かもしれません。自分語りは、長く抱えてきた孤独の出口なのかもしれません。議論にこだわる態度は、「理解されたい」という叫びの裏返しとも受け取れます。つまり、現れ出る「ふるまい」は、意図よりもむしろ衝動によって動いていることもあるのではないかと。
目的が違うように見える方に出会うと戸惑いますが、その戸惑いごと場に置いておけるのが哲学カフェなのかなと思います。無理に一致を目指さなくても、違いを抱えたまま隣り合っていることに意味があります。まとまりきらない声が並ぶことで、対話は少しずつ輪郭を広げていくのではないでしょうか。
安本志帆(正会員)
参加者のニーズにどこまで応えるか
むかし哲学Barを開催していた頃には、いろいろな参加者がいました。「フーコーの〇〇について知りたい」といきなり質問してくる方や、「キレイ」というテーマを見て「美しさを保つ秘訣を教えてくれるのでは」と期待して来られた方など。今では良い思い出です。
「目的違い」について、飲食店に例えて考えてみましょう。街中の多くのカフェでは、飲み物さえオーダーすれば、本を読んでいても、ぼーっとしていても、友達とおしゃべりしていても構わないですよね。それと似たように、哲学カフェに参加する目的もさまざまであってよいのではないか。「目的」は主催者が決めるものではなく、参加者自身が意味づけるものではないか。まず、こういう考え方ができるかもしれません。
一方で、飲食店には“売り”にしているメニューがあったり、「必ず一人1ドリンク以上」「撮影禁止」など明確なルールを設けているところもあります。そうでなくても、なんとなく店全体の雰囲気があって、それに合わない人は場違いに感じることもあります。哲学カフェも同じで、その場所が設けているルールや大切にしていること、醸し出す雰囲気を好む人が自然に残っていく、ということもあるのでしょう。
街中に飲食店がたくさんあれば、好みに合った店を選ぶことができます。しかし問題は、周りに1軒しか飲食店がないような場合です。まちの食堂で、やたらメニューが豊富なお店がありますよね。あれは、いろいろなお客さんのニーズに応えようとした結果なのでは、と想像します。とはいえ、和食の店で本格イタリアンを出すのが(通常は)難しいように、地方で孤軍奮闘する哲学カフェは、参加者のニーズにどこまで応えるのか選択を迫られることもあるのではないでしょうか。
和食の店にイタリアンを求める人が来たとき、お店の人はどう対応できるのか。「うちにはできない」と断ることもできるし、あるいは、自分たちの出せる範囲でなんとか料理(ナポリタンとか?)を用意する人もいるかもしれません。個人的には、このような時に紹介できるよう近くの飲食店のことを知っておくことも有用だと思います。どの対応に親近感を覚えますか? そもそも哲学カフェを飲食店に例えることに違和感がある、という人もいるかもしれませんね。あなたはどう思いますか?
山本和則(正会員/余白製作所)
スポーツの例えで説得
山本さんは飲食店に例えてくださいましたが、私はスポーツの例えで参加者を説得したことがあります。
ある日、哲学カフェで「発言の終わりを必ず質問にしよう」と提案された方がいました。どうも、その方がピアカウセリングのために勉強していたコミュニケーション法の一つにそういうものがあったようです(すべてのピアカウンセリングがそういうもの、というわけではなさそうですが)。
私は、「参加者全員が賛同するならそうしてもいいけれど、一人でもやりたくない人がいたら強制はしません。みなさん、いかがですか?」と参加者に尋ねました。多くの人が「発言の仕方を強制されたくない」「質問はしたいときにすればいい」「したくもないのにされた質問に、答えようという気持ちになれない」と難色を示しました。しかし、提案者は、「発言を質問で終えるほうが、絶対いい対話になるはずだ」と言ってなかなか譲らず。
こう説明して、ようやく納得してもらうことができました。
「それは、サッカーをするために集まった人たちに、『絶対手をつかったほうがいい』と言ってハンドボールを強制するようなものです。ハンドボールも素敵だけど、サッカーにはサッカーにしかない楽しさがある。今日はみなさん、ピアカウンセリングを体験しにきたのではなく、哲学カフェをしたくて集まったんです。あなたが自分の発言を質問で終えるのは自由だけど、他の方に他所のルールを強制しないでください。」
いまは岡山で私以外にも哲学カフェの進行をする人がいますが、まだ哲学カフェが少ない地方ならなおさら、参加者の哲学を楽しむ権利が奪われるようなことがあってはならない。そう思います。
松川えり(正会員/てつがくやさん)