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Q12.どんなテーマがふさわしい?

「ふさわしくないテーマ」から考えてみる

「ふさわしいテーマ」を考えることはとても難しいですが、「ふさわしくないテーマ」についてなら考えられることがあるように思います。

長く哲学カフェから離れていますが、街中のお店で哲学カフェを開かせてもらっていたときに先ず考えていたのは、参加者や周囲にいる人たちにとって不快に感じさせることはないだろうかということでした。特にナイーブな事柄にかかわるテーマの場合ですと、いくら進行に気を付けていても、誰かを傷つけてしまうような発言が出てしまうことがあるかもしれません。そんな危険が予想されたとき、それでもやる意義があるだろうかと問い、そこで意義が見つからなければ見送るようにしていました。そういうものは「ふさわしくないテーマ」になるのではないかと考えています。

井下賢一(正会員)

「ふさわしさ」はその場に立ち現れるもの

あらためて読み返すと、「盛り上がる」でもなく「適切な」でもなく「ふさわしい」テーマ、という視点は面白いですね。

「ふさわしさ」と聞いて思い出すのが、「文化は必要か?」というテーマで議論した滋賀での哲学カフェのことです。当時は会場近くの百貨店が閉店するというニュースが話題になっていた時期で、「自分にとってこの百貨店は文化の象徴だった」という参加者のお一人から提案いただいたテーマでした。

言葉面だけみれば「文化」というテーマはよくあるものなのかもしれません。しかし当日その場にいた参加者にとって、このテーマは間違いなくこの場で考える「ふさわしさ」を帯びていたように感じ、強く印象に残っています。百貨店の思い出話も挟みながら議論は盛り上がり、カフェに来ている一般のお客さんも心なしか耳を傾けているような気がしました。

「ふさわしさ」というのは、主催者の意図や工夫とは別に、その場に立ち現れてくるものなのかもしれません。

山本和則(正会員/余白製作所

「普遍的」の捉え方、扱い方

ほぼほぼ、『哲学カフェのつくりかた』(カフェフィロ編/大阪大学出版会)のQ&Aに載っているポイントを忠実に守っています。

本で挙げられているポイントの中で最も迷うのは、「根本的で普遍的な問いを含むもの」の「普遍的」をどう解釈/理解するか。日本語という特定の言語を使っている限り、完全に普遍的ということはありえない気もするけれど‥‥‥、参加者全員がなにかしら自分の経験を参照できること、全員が自分事として捉えられることを、テーマに求められる普遍性を満たす基準としています。

特に要注意だなと思うのが、「母親とは?」「父親とは?」など、特定の誰かを対象とするテーマ。リクエストがあっても、当事者からの要望がない限り、お断りするようにしています。私にも母や父がいて、そういう意味ではなにかしらの経験があるわけですが、それはあくまで他者としての経験。自分自身が母親や父親という立場を経験したことがあるわけではありません。わたしが哲学カフェに魅力を感じているのは、机上の空論ではなく、地に足つけてリアリティをもって真理を探求することができるというところなので、そのポイントを外さないためには、当事者の、内側からの経験や視点が欠かせません。

どうしても特定の誰かが当事者になる問題について考えたいときには、当事者と一緒に企画したり、本や映画など当事者の声が表現された題材をテーマ代わりにしたりします。たとえば、前者の実践例としては、ゲイの人たちと一緒に企画した中之島哲学コレージュ「ハッテン場摘発事件を考える」や、LGBTQ団体の協力のもと「アライ」について考えるために実施した犬てつ「味方ってなに?」などがあります。また、後者の実践例としては、哲学カフェ尾道で実施たしシネマ哲学カフェ『もうろうを生きる』や、えほん哲学カフェ『せかいでさいしょにズボンをはいた女の子』などがあります。

準備に時間はかかるけど、対話の時間だけじゃなく、そうした準備やアフターケアも含めての「哲学実践」であり、「哲学とともに生きる」とはそういうことなのだと、カフェフィロ設立当時は気づいていなかったけれど、実践を続けるなかで確信するようになりました。

松川えり(正会員/てつがくやさん

こちらの問いは、カフェフィロ編『哲学カフェのつくりかた』(大阪大学出版会)のQ&Aの中からピックアップしたものです。このページでは、メンバー3名のそれぞれの回答を示しましたが、『哲学カフェのつくりかた』には、執筆者13名共通の回答が掲載されています。そちらもどうぞご参照ください。

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