参加者から学んだ涵養
私自身が哲学カフェを始めた理由は、ただ楽しいから。「そんなこと考えて、何になるの?」と咎められることなく、遠慮なくいろんな考えをきいたり話したりしたい! そんな好奇心からで、目指すものなんて特にありませんでした。
ところが、ある日、参加者の一人がこう教えてくれたんです。
参加し始めた頃は、年代や立場の異なる人の発言に戸惑って、受けいれられませんでした。でも、自分と立場の近い人が「いろんな考えがきけて、楽しいね!」と言うのをきいて、「本当に?」と確かめるように参加し続けるうちに、自分とちがう考えをきくことを、少しずつ、楽しめるようになってきたんです。おかげで、今は家族や地域の人とも、冷静に根気強く話し合えるようになりました。
それからは、「楽しいと思える人が少しでも増えますように」と願いながら続けています。楽しめなかった人が楽しめるようになる。これも、『哲学カフェのつくりかた』で樫本直樹さんが「市民社会を支える徳の涵養」と呼んだものの一つなのかもしれません。
松川えり(正会員/てつがくやさん)
共通了解のようなもの?それとも?
参加者全員で最後に共通了解のようなものを出せたらいいなあ…とぼんやりと思うものの、そんなことは夢のまた夢。
ある哲学カフェにとても静かな方が参加された。初回、ご自分からは一切発言せずに帰られた。そして翌月もその翌月も参加されては発言せずに帰られた。もちろん、こちらからお尋ねすれば答えてくださるのだけれど。あるときからパタっと参加されなくなった。ああ、やっぱりつまらなかったのかな、と思っていたら、数ヶ月後、久々に参加された。手術とリハビリで休んでいらしたとのこと。そして「みなさんとお会いするのが楽しみでした」と嬉しそうにおっしゃった。
その方は、他の人の話しを聴いているだけでも充分に楽しまれていたのですね。それを知って、志の高い哲学カフェでなくても、まあいいかと、つい思ってしまいました。
いやいや、そんなことではいけない。わたしはやはり目指したい。「今日はたくさん考えて疲れちゃったね」と言いながら、みなさんが笑顔で帰っていかれるような哲学カフェを。
廣井泉(正会員)
不可測な世界に「分け入る」こと
わたしは哲学カフェに手応えを感じ、喜んでくれる他の人がいたから、これまでやってきました。それは目的・目標というより、得られることを期待する「効果」effectかもしれません。あるいは、「志」はあります。
この頃思うんですが、ひとはことばを貨幣のようにやり取りして、それをコミュニケーションと呼んでますよね。社会を回すツールでしょうか。だけどそれだと、口のうまいひと、声の大きいひとが得をする傾向がある。身近な家族にだって、貨幣じゃないけど、決まりきった言葉のやり取りがありますよね。家族だからこそ言えないことって、多い。ほんとの思いが伝わっているのか、死ぬまで頼りない。
社会とか世界って、もっと厚みのあるものだと思いたい。言葉が可能にしてくれる不可測な世界に「分け入る」ことをしたい。そこで、文化不毛な(ごめんなさい)郷里に帰って、哲学カフェを根付かせたいと思った。ユネスコ協会や、米軍基地の高校で対話を実現できて、地域への社会的エンゲージメントになったけど、後が続いていないです。このようにいつも手探りです。
中岡成文(正会員/一般社団法人 哲学相談おんころ)