経験に根ざして世界を見つめ直す
哲学対話と学問としての哲学は、深くつながっています。学問としての哲学は、「正義とは何か」「自由とは何か」といった、本質的な問いを考える営みです。哲学対話もまた、そうした問いを他の人と一緒にじっくり考える場ですが、そこでは正しい答えを出すことよりも、お互いの考えを大切に聴き合うことが重視されます。自分とは異なる視点にふれることで、自分の感じ方や考え方にも新たな気づきが生まれます。
これは「ケア」としての対話とも言え、その場にいる参加者を思いやりながら理解し合う方法です。また、絶対的な正解を求める客観主義でも、「どれも正解だから決められない」とする相対主義でもない、第三の道でもあります。こうした姿勢は、私たちの経験に根ざして世界を見つめ直そうとする現象学の考え方にも通じています。
哲学対話は、哲学を知識ではなく、生きた問いを考え続ける大切な営みなのです。
稲原美苗(正会員/神戸大学大学院人間発達環境学研究科 准教授)
世界の「リアル」に迫る共同アウトプット
この世界の「リアル」に迫りたい。哲学カフェも哲「学」も、そのための手段です。哲学カフェは、他の人との共同アウトプットです。学問としての哲学は私の個人的インプットでした。 たとえばデリダのような異端の哲学者でも、厳格な訓練を経て、彼なりの筋道が立った思考をする。そこは私などもまねたいところですが、反面でそれはカフェにおいてどう作用するのか。まだ模索中です。
学徒として死ぬまで学び続ける一方、学問としての哲学を、どう「リアル」の解明にフィードバックするか、私は悩み、疑っています。少なくとも、自分の中にある(と思う)哲学には楽をさせていません。カフェのテーマに駆動力を与えてくれるなら、私はかじっただけですが、東洋の哲学思想だって、どんどん動員すればいいわけです―あくまで哲学カフェのプレイヤーとして。うまくいけば、それが共同アウトプットの一部となり、世界の「リアル」をその分解明できます。
中岡成文(正会員/一般社団法人 哲学相談おんころ)
死んだ言葉と生きた言葉
問いの前で、頭を抱えています。
多くの場合、学問としての哲学に取り組むときには、死者によって書かれた言葉を介して、何かを理解しようとします。そこには、一抹の安心感があります。著者が、私たちと同じこの世界に姿を現すことがないことは、ひとつの安心です。著名な死者の前に、シャーマンたちが並び立つように、死者の言葉を生きた言葉で再生しようとする、そのことを「学問としての哲学」と呼んでみることにしましょう。
ところが、哲学カフェでは、生きた言葉を語ることになります。目の前では、生きている人間たちが話し、その場で考えを変えます。聞き手たちが感情的に反応することもあれば、ときには「誘惑」が生まれることすらあるでしょう。私たちは、生きた耳に対して語り、そこから汲み取られた意味を身体的に解釈することになります。生命の反応を、生命として受け取る。
私はそういった異なった二つの活動を繰り返して、死と生を行き来する活動のことすら、哲学だと呼びたくなることがあります。繋げたいと思いながら繋がらない二つの行為。困難な問いを前に、そんな言葉たちが、頭の中に浮かんでいます。
中川雅道(正会員/神戸大学附属中等教育学校 教諭)