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Q16.よい対話とは?

対話がその場で終わらないとき

何かを訊かれて、訊かれる前には戻れなくなったとき、よい対話だったと言えるでしょうか?

なぜ私たちは働くのか、という問いについて、とある教室で中学2年生たちといっしょに考えていました。先生はなんで働いているんですか、と質問がありました。きっとその場で労働しているのは私だけだったので、私に向けて質問があったというわけです(困ったことに私は「先生」と呼ばれる立場にいたわけです)。ところが、なぜ自分が働いているのか、その瞬間まで考えたことがなかったので、わからないと答えてしどろもどろになりました。くすくす笑いが広がりました。

そのことがあってから、私はよく、「なんで働いているの?」と訊いてくれた人に、今の私ならどう答えるだろうか、と考えるようになりました。対話がその場で終わらないとき、もしかしたら、それはよい対話だったのかもしれません。

中川雅道(正会員/神戸大学附属中等教育学校 教諭)

心地よさと道徳的な「善さ」

対話の当事者でないときは、当事者の頑なだった心が徐々にほぐされ、こだわりを解放した場面に立ち会ったとき「よい対話」だったなと思うことがあります。でも、自分が対話の当事者の場合は同じような状況になっても「よい対話」だったと思えたことはありません。不安や苦痛、戸惑い、葛藤を伴うことが多く、特に、受け入れがたい現実を受け入れざるを得ないことが分かったときは、愕然とすることもあります。

一方で、自分が対話の当事者で「よい対話」だったと思えたのは、心を許せる相手と程よい緊張感を保ったまま、相手の言葉にも自分の気持ちにも力まず真摯に向き合っている間に、いつの間にか、それまで気づきもしていなかったことに気づいたり、大事だと思わずにいたことを大事に思えたりしたときです。それも、気づいたことを無理なくすんなりと受け入れることができたり、大事だと思えたものに愛おしさを感じたりできたときです。心地よさがなければ「よい対話」だったと思うことはなかったでしょう。

自分が当事者のときは心地よさを求めながら、当事者でないときは当事者の心の痛みに目もくれず自分にとって好ましいとか道徳的に善いとかという見方で対話を捉えていたのかもしれません。

そんなことに、愕然としています。

井下賢一(正会員)

「言葉の力」を信じられたとき

「よい対話だった」と感じられるのは、「言葉の力」を信じられたときだと思っています。哲学は、病を治すわけでもなければ、がれきを片付けるわけでもありません。でも、対話という営みには、信じるに足る何かがあるはずだ、と感じています。言葉は人を傷つけることもありますが、救うことだってあるはずです。言葉が蔑ろにされがちな時代であるからこそ、私は「言葉の力」を信じてみたいと思っています。

ところで、
「なぜ、震災や原発事故についての対話を続けるのですか」
と尋ねられたり、
「喋りたいことを、ただ話しているだけではないですか」
「これが何の役に立つのですか」
といったご意見をいただいたこともありました。

迷いながらも私は、このように答えたことを覚えています。戦禍や災厄が降りかかり、多くの方々が割り切れない思いを抱えているかもしれません。でも、この出来事をなんとか言葉にして、私たちの人生の中に落とし込むことができたなら・・・一つの言葉を、人生を生き抜くための糧にできるかもしれません。

ただ、何事も言葉にするには、時間がかかるものです。生きていれば、うまくいかないことだって、どうしようもなくうなだれることだって、あるかもしれません。だからこそ「よい対話」にするためには、言葉をゆっくりとかみしめ、吟味すべき時間が求められるのではないでしょうか。その時間は一日かもしれませんし、永遠と呼ばれてしまうような長さかもしれません。「コスパ」「タイパ」と声高に叫び続け、カンフル剤のように即効性を求める見方を手放してみると、「よい対話」の意味も変わってくるでしょう。「言葉の力」を信じてみるためにも、時間を味わってみるのもよいかもしれません。

辻明典(正会員)

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