都市と地方の違い
大学や企業本社が集中し公共交通の便がよい東京では、開催日直近でも一過性のイベントとしてSNSで告知しても人が集まりやすいですし、参加者層も若者・女性が多く多様性に富んでいます。個人で開くハードルが低いとあって、哲学カフェの数は東京圏に偏在しています。都市は匿名性が高いため、結果として、話し手の発言が聞き手の偏見によって不当に評価される「証言的不正義」が起こりにくいため、その利点を生かそうと自己紹介をしないことをルール化する哲学カフェもあります。しがらみのない人間関係は、「旅の恥はかきすて」とばかり、「心理的安全性」を感じてプライベートな話しもしやすくさせます。
それに対して地方の哲学カフェは、地域は広いのに数が少ない。認知度も低い。比較的人が集まりやすい所で開かれる。地縁・血縁・職縁など同質性が高い場合がある。高齢者が多い‥‥‥などの傾向があります。「地方」で哲学カフェに出かけてみると、永井玲衣さん、梶谷真司さん、河野哲也さん、松川えりさんたちがファシリテーターをされていることがあります。これらは、当初は都市で行われている哲学カフェの紹介・再演・体験の場として期待されることが多いようにみえます。学生時代に都市の哲学カフェを体験していた人が卒業後地方で就職・移住してから、自身が体験した哲学カフェを開く事例もあります。書籍やネットでハウツーを学んで、哲学カフェに参加したことがない人もいきなり始められる事例も事欠きません。哲学カフェは、「どこでも、誰でもできる」スタイルの地域差がない汎用型イベントであることを売りにしています。しかし何事もそうですが、当初は汎用型でも、やがて主催者、参加者のニーズや状況に合わせてカスタマイズされるものです。私見では、子育て、居場所づくり、地域づくり、シェア型書店、市民活動センター、大学など地域活動をしている組織・グループは、当初は都市の先進事例として受け入れるものの、やがて、過去の経緯や従来の論理とスタイルと相互に影響しあって変容していきます。その点で要因は多数あるが、スタイルの差の中には地域差もあると言えるでしょう。
山方元(パートナー会員)
地域ごとのリアリティ
進行のスタイルは人それぞれで異なるでしょうし、その場に集う人たちも毎回異なるので、当然のことながら雰囲気も変化します。これを踏まえるのであれば、地域のリアリティも土地によって異なるのでしょうから、紡がれていく言葉も変化しうると思います。
さて、地域のスタイルの違いについて。
私は主に、仙台や南相馬など、東北地方で実践することが多いのですが、自分自身の進行のスタイルはあまり変えません。ですが、状況に応じて、対話に臨む心構えのようなものは、意識するようにしています。例えば、原子力災害の被災地で実施するときは、必ずと言っていいほど「生きる」ということが話題にのぼります。それは「生」という主題が、対話の場に集う人たちにとって、抜き差しならぬ課題であり、日々向き合うリアリティであるからです。そのため、大掴みで「生」の課題と向き合うという心構えだけは抱くようにと、自分自身に言い聞かせています。
戦争、災害、生老病死・・・地域ごとに、それぞれのリアリティは異なるでしょう。しかしどの地域であろうとも、その土地のリアリティと向き合い、応答しようとする時、紡がれていく言葉も自ずと変化しうるでしょう。地域差も、その土地のリアリティと向き合うとき、自ずと浮かび上がってくるのではないでしょうか。
辻明典(正会員)
話し方、文化、人口
神戸、大阪、京都、岡山、広島、鳥取、島根、徳島、北海道、東京、静岡、福岡‥‥‥これまでに国内の様々な地域で哲学カフェを行ってきました。その中で、参加者の話し方が突出してちがう!と感じたのが、東京と大阪です。東京では、頭の中や手元のメモで論点や理由を整理してから、論理的な語り口で話す人が多い印象があります。対照的に、大阪周辺では、話しながら考える人が多い。話してる途中で「あ、ちゃうわ!」と、自分で自分にツッコミを入れ始める人や、話し始めと話し終わりで意見が変わる人も、めずらしくありません。
話し方という点では、大阪と東京ほど突出した違いはありませんが、もちろん、その他の地域にも、ぞれぞれの味わい深さがあります。広島県内の哲学カフェでは、カープの大事な試合の日には、テキスト中継を見ながら哲学カフェに参加する人も。テーマに関するやりとりと同時並行で、「どうなってる?」「打った!?」「よっしゃ!」といった野球に関するやりとりが繰り広げられることもあり、「よく混乱しないなぁ」と感心します。
また、同じ都道府県内でも、人口によって対話環境は大きく異なります。都市部では、ある程度の匿名性を保つことができますが、山間部や離島では、そうはいきません。特に人口が少ない地域では、参加者全員が互いの本名と職業を知っているだけでなく、家族の名前や職場まで完璧に把握していることも、珍しくありません。当然、普段の関係性が対話に影響しやすいので、進行にも細心の注意が必要です。と同時に、しっかり地域の課題や誰かの悩みに寄り添うような対話ができたときには、個人単位ではなく地域単位で「福効用」がもたらされるので、進行役としてのやりがいも大きいです。
松川えり(正会員/てつがくやさん)
ハワイの学校も似てる
私は哲学カフェよりも学校で行う哲学対話(子どもの哲学)の実践に多く関わってきました。その経験から、哲学対話のスタイルに地域差があるのかを振り返ってみたいと思います。考えてみれば、住んでいる東京や首都圏以外にも関西圏、沖縄や北海道、色々な地域にある学校で哲学対話に参加してきました(九州と四国では参加したことがないことに気づきました。どなたか、ぜひ参加させて下さい!)。学校での哲学対話の特徴は、多くの場合、クラス単位の授業として行うことが多いため、参加者はクラスメイトとしてお互いにお互いをよく知っているというところ、そして、似た年齢の人たちが参加しているというところです。この二つが、市井の哲学カフェとの大きな違いであるように思います。
このような特徴もあってか、私の印象では、学校で行う哲学対話は年齢(学年)によって、そのスタイルが変化します。例えば、小学校の低学年の子どもたちはしばしば「哲学的な問い」を好みます。「神様はいるの?」とか「宇宙の端っこには何があるの?」のような問いが出てくることがあります。それに対して、高校生たちは、社会的な問題やいま話題になっていることから問いを立てる傾向があるような気がします。「ゲームで課金するのはよいこと?」や「スマホを禁止するのはよいこと?」のような感じです。学校に関わる問いはどの学年でも人気です。「勉強はしなくちゃいけない?」や「算数/数学は何のためにするの?」は頻出の問いだと思います。
この傾向は、いま私が滞在しているアメリカのハワイ州でも同じだと思います。面白いことに、参加のスタイルも似た傾向があります。日本の学校では低学年での哲学対話ではどんどんと手が上がりますが、高校生年代になると一部の学生しか話をしようとしません。この傾向はハワイでも同じです。もちろん、アメリカの方が全体としてはよく話し、手も上がりますが、その割合が年齢とともに減っていくことは日本各地の学校と同じです。
これを書いていて、イタリアの街角で行われた哲学カフェに参加したのを思い出しました。文字通りの街角(石畳の「広場」と呼ばれる大きな交差点のような所)にゴザを引いて、マイクで対話をしました。それ自体は参加した学会のイベントで行われたものですが、普段から似たような形態で行なっていると言っていたと思います(間違っていたらすみません)。世界各国から集まっている参加者にくわえ、通りかかった旅行者の人も参加し、国際色豊かな対話となりました。マイクをもって多くの聴衆の前で堂々と話す人々の姿が印象的でした。
村瀬智之(正会員)